雄略天皇

一言主や小子部ら、アカイイトと関わりの深い伝承に登場する雄略天皇の実像とは?

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第二一代天皇。泊瀬朝倉の宮に都を定め、『日本書紀』の大泊瀬幼武天皇。『古事記』には大長谷若建命とある。允恭天皇の第5皇子。母は忍坂大中姫命。
雄略天皇即位前紀では「天皇、産れまして、(あや)しき光、殿(おほとの)(いは)めり。(ひととな)伉健(たくま)しきこと、人に過ぎたまへり」と書かれている事や、『万葉集』『日本霊異記』では雄略に係わる内容から始まる事から、古代において特別な意味を持つ大王であったらしい。多くの歌が伝わっており、『古事記』に九首、『日本書紀』に三首、『万葉集』に二首を伝えるが、実際に雄略の時代に作成された物では無く、天皇に仮託された伝承歌であるらしい。

考古学的には埼玉県生田市稲荷山古墳出土の鉄剣の発見(銘文の「獲加多支鹵大王」とはワカタケル、つまり雄略天皇であるというのが通説である。)と熊本県和水市の江田船山古墳の鉄剣銘文にも雄略か反正天皇の名が記されていた為、雄略の時代には少なくても関東から北九州までヤマト王権の勢力範囲が及んでいたことがほぼ確実と言われるようになった。


画像:江田船山古墳鉄剣 撮影場所:東京国立博物館 考古展

また、その勢力は国内にとどまらず、雄略天皇紀には朝鮮半島諸国や呉国(当時交流があったのは宋の為、恐らく特定の王朝を指さない中国の古い呼び方だったのだろう)関連の記事が多く見受けられ、中国の文献上でも倭国が朝鮮半島の勢力争いに関与していた事実が記されている。
478年、宋に使者を送った倭王武は雄略であるとされており、『宋書』倭国伝によると、武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国軍事、安東大将軍、倭国王に除したが、百済の軍事統制権は認められず、この年で中国への通交は断絶する。

背景には雄略が政治上のライバルを全て粛清した為に、もはや中国の権威をそれ程必要としなくなったことと、四七五年に百済が事実上、高句麗に滅ぼされ、百済の復興に日本が力を貸した事が関係している。『日本書紀』によると、雄略が熊津の地を百済に与えたと書いてあり、これは事実ではないとしても、限りなく臣従という形で百済を再建させたらしく、百済の内政を助ける為に物部氏などを送っている。そして日本の意向を通して幼い王を擁立させた。その為、百済から多くの文物が入り、専制君主として雄略の力が巨大となり、既に中国から認められる必要もなくなっていた。

この様に、文献的に見ても考古学的にみても雄略の実在は確定しており、巨大な勢力を誇った大王であった事は間違いない。

アカイイトでは雄略が臣に恵まれていたといった事を観月の民が述べていた。観月の民が語っていたのは小子部栖軽や春日小野臣大樹についてだが、『日本書紀』では雄略朝に大連になった大伴室屋や物部目の活躍が目立つ。この頃に大臣と並ぶ大連という大王家に次ぐ地位が確立されたのか、(但し、五世紀中頃はまだ私的な称号の段階であったという説が有力の様だ)あるいは葛城氏に代わり、大伴氏や物部氏といった伴造家系の連姓氏族が台頭し始めたのが雄略朝であるのかもしれない。

因みに西暦700年前後の時点にも関わらず、観月の民が「雄略」という言葉を使っているのは完全な間違えである。『日本書紀』の表題に書かれている各天皇の漢風諡号は『釈日本紀』述義五によれば「私記曰、師説、神武天皇等諡号名者淡海御船奉勅撰也」とある。つまり、奈良時代の淡海御船という人物により神武天皇といった漢風諡号が定められたというのが通説であり、一説によれば762年〜763年の頃に定められたという。但し、文武天皇の様に御船以前にも存在した諡号もある為、御船が選んだ諡号は神武以下持統までと元明・元正ぐらいではないかの説もある。いずれにせよ、アカイイトの舞台である西暦700年前後に雄略などという漢風諡号が存在する筈も無く、明らかな設定ミスである。本来は稲荷山鉄剣銘文にあるように「ワカタケル」と呼ぶのが正しいが、(好意的に解釈すれば)歴史学に造詣が無いと尊号(在世中の名)はあまり馴染みが無い為、敢えて雄略と言う呼び方をした可能性はある。

参考文献
『日本書紀(一)(三)』 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校注 岩波文庫
『万葉集を知る事典』 櫻井満【監修】尾崎富義・菊池義裕・伊藤高雄【著】 東京堂出版
『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1)』 石原道博編訳 岩波文庫
『歴史群像シリーズ特別編集 古代天皇列伝』 学研

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