鬼部(物部)

「鬼切部」の前身「鬼部」は天孫降臨に匹敵する伝承を持つ古代最大の豪族だった!

 アカイイト元ネタ分析に戻る

・アカイイト作中の用語解説

アカイイトの「鬼部」の用語解説では

「後の鬼切部の母体となった一族。五八〇年から五九〇年にかけて衰退したため、以降「切」の字を入れた鬼切部が登場することとなる。」

と簡潔に説明されている。
また「文石の長」の用語解説で

「鬼部(物部)一族に伝わる十種の神宝は剣一、鏡二、玉四、比礼(布)三からなる」

という説明がある。(十種の神宝については「布瑠の言」項目も参照)

画像:弘法大師全集. 巻14 より 「十種神宝図」 祖風宣揚会 編 吉川弘文館[ほか] 
(国立国会図書館デジタルコレクションより著作権切れ画像使用)

解説:
物部氏とは祭祀とともに軍事を司っており、朝廷で一定の職業を世襲する伴造(連)であったが、応神〜雄略朝あたりから台頭し始め、継体朝の物部麁鹿火(もののべのあらかい)大連の時代には天皇と同等の役割を果たす程権勢を振るった。だが、欽明朝の物部尾輿の代から仏教を認めるかどうか、乃ち崇仏論争が起こり、新興勢力の崇仏派・蘇我氏との権力紛争により物部氏は衰退していくことになる。上記傍線部は言うまでも無く587年に起きた「丁未の変」をさし、蘇我馬子・聖徳太子(厩戸皇子)を中心とする連合軍に物部守屋が滅ぼされたことをさす。
しかし、物部本家が滅びた後もなお『新撰姓氏録』では物部氏の一族は百十一を数え、尾張氏五十二、中臣氏四十二、出雲氏二十二、大伴氏十三と他氏と比較すると圧倒的に多く、古代最大の豪族であった。
また、天皇家と同じく降臨神話が伝えられていることや、祭祀に係わる記載が多く、その神秘性故か、さまざまな偽書や偽史に取り上げられる事になる。
これから物部に関する様々な伝承や、歴史についておおまかに述べていく。

・モノノベの意味

物部とは「霊魂部(もののべ)」が原義。霊魂をつかさどり鎮魂にあずかる職能集団である。やがて、それが軍事をあずかる「武士(もののふ)」に移行する局面を生じたように、神宝ともなる鎮魂の呪器類が武器として考えられることになった。折口信夫によると、神宝とは神の財産・装飾となるものだが、本来は神に霊魂を呼び入れる媒介物(神への鎮魂)であり、神が霊魂を付与してくれる仲介物(神からの鎮魂)であるという。
他にもモノノベに関しては色々な説があるが、あげて行くとキリがないのでここでは上記の内容にとどめておく。


アカイイトでは漢字に「鬼部」を当てているのは何故?

良く知られているように「鬼」は「おに」と和訓の読み方が定着したのは平安末期の頃であり、それまでは「おに」以外にも「もの」「かみ」「しこ」などと訓読みしていたため、「物部」を「鬼部」の字を当てたことは容易に察する事が出来るが、恐らくそれだけが理由では無い。
(というか、それだけの理由じゃつまらないので)

『日本書紀』崇神紀によれば崇神天皇の母親が伊香色謎命(いかがしこめのみこと)といい、物部氏の遠祖大綜麻杵(おおへそき)の娘であると伝えている。この大綜麻杵の兄が鬱色雄命(うつしこおのみこと)であり、伊香色謎命の弟には『先代旧事本記』天孫本紀によれば伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が居る。これらの人物の名前には「シコメ」「シコオ」と「シコ」が共通している。黄泉国の神話には伊弉諾尊が桃の実を投げて黄泉醜女を追い、これが本邦における鬼の初出であるといわれている。乃ち、「シコメ」の「シコ」とは鬼を意味する。

また、伊香色謎の子である崇神天皇は諡号の通り、祟る神・大物主を奉った事が『日本書紀』に書かれているが、この大物主は大国主であるとされ、大国主は『古事記』の出雲神話では素戔嗚命により、「葦原醜男」と呼ばれていた。これは醜いという意味ではなく、精強な男という意味があるらしく、鬼神の様なものであろう。後世、大国主が大黒天と習合したのは鬼神とみなされていたからではないのか。

この様に、単に「鬼」を「もの」と読んでいた事だけから生まれた設定では無く、物部の祖が鬼との関わりを想像させる名を持っていた為、「鬼部」の字を当てたのではないだろうか。
 

・布瑠の言

「一二三四五六七八九十、布瑠部、由良由良止、布瑠部」

神道において記紀に次ぐ第三の神典として重視されている『先代旧事本紀』では、饒速日尊が天孫に先立って降臨する際に、高御産霊尊に授けられたのが、この布瑠の言である。
前節部分の「ひふみ…」の一から十までの部分は十種神宝をそれぞれ意味している。
十種神宝とは、瀛津鏡(おきつかがみ)辺都鏡(へつかがみ)八握剣(やつかのつるぎ)生玉(いくたま)死反玉(しがえるのたま)足玉(たるたま)道返玉(ちがえしのたま)蛇比礼(へびのひれ)蜂比礼(はちのひれ)品物比礼(くさぐさもののひれ)
この祝詞はオカルティックな作品では定番であり、アニメでは「レンタルマギカ」、ゲームでは「久遠の絆」などで登場した。
また、アオイシロでも相沢保美ルートで

「ふるえ、ゆらゆら、ゆらゆら、とふるえ」

という文が出てくるが、恐らく布瑠の言のアレンジと思われる。
この布瑠の言については元々物部氏に伝わっていたのではなく、後世に創作されたという説もあるが、それについては一番最後の項目、「物部氏の伝承を語る『先代旧事本紀』とは?」をご覧ください。

 

■物部氏の祖、ニギハヤヒの伝承

・『日本書紀』 神武即位前紀 物部氏の祖・ニギハヤヒの帰順

「ナガスネヒコは使いを送って、天皇に「昔、天神の御子が天磐船に乗って天降られた。クシタマニギハヤヒノミコトと言います。この人がわが妹のミカシキヤヒメを娶って子が出来ました。名をウマシマデノミコトと言います。手前はニギハヤヒノミコトを君として仕えています。一体天神の子は二人居られるのですか。どうしてまた天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。手前が思うに貴方は偽者でしょう」と言上した。天皇は「天神の子は多くいる。お前が君とする人が、本当に天神の子ならば、必ず表(しるしの物)があるだろう。それを示しなさい」と言われた。ナガスネヒコは、ニギハヤヒノミコトの天波波矢と歩靫を天皇に示した。天皇はご覧になって「偽りではない」といわれ、帰って天皇が所持する天波波矢と歩靫をナガスネヒコに示された。(中略) ニギハヤヒノミコトはもとより天神が深く心配するのは天孫の事だけであるのを知っていた。また、かのナガスネヒコは性格がねじけたところがあり、天神と人とは全く異なるのだと言うことを教えても、分かりそうにないことを見てこれを殺害された。そして部下達を連れて帰順された。天皇はニギハヤヒノミコトが天から降ったことは分かり、今忠誠の心を尽くしたので、これを褒めて寵愛された。これが物部の氏の先祖である」

解説:
驚くべきは神武天皇がニギハヤヒを自分と同じく天神の子である事を認めた事である。つまり、天皇とニギハヤヒはほぼ同格の存在であったと国史である日本書記が認めてしまっているのだ。
これは他の如何なる有力豪族にも同様の伝承は見られず、物部氏を特別に贔屓する理由があったのか? 以下にあげる降臨伝承とともに、説を数例あげてみる。

・『日本書紀』神武即位前紀 物部氏の祖神・ニギハヤヒの降臨伝承

「昔、タカミムスビノミコトとアマテラスオオミカミが、この豊葦原瑞穂国を、祖先のニニギノミコトに授けられた。そこでニニギノミコトは天の戸をおし開き、路を押し分け先払いを走らせておいでになった。(中略)塩土の翁に聞くと『東の方によい土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天磐船に乗って、飛び降って来た者がある』と。(中略)その飛び降って来た者をニギハヤヒというものであろう」

「ニギハヤヒノミコトは、天磐船に乗って大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので、名づけて「虚空(そら)見つ日本の国(大空から眺めて、よい国と選ばれた日本の国)」という。」

「虚空見つ日本国」のくだりでは、イザナギノミコト、オオアナムチオオカミ(大国主)と並べられているのはニギハヤヒに対する敬意の現れである。

このニギハヤヒとは物部氏の祖神であり、『古事記』では「迩芸速日命」、『日本書紀』では「櫛玉饒速日命」、『先代旧事本紀』では 「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)」と表記される。上記の伝承では、神武天皇よりも以前は物部氏の祖・ニギハヤヒが大和に入っていたということになる。

また、平安時代に書かれた物部氏の伝承を載せる『先代旧事本紀』では、降臨伝承について詳しく書かれており、五部造の率いる三十二人(神)と天物部二十五部人に守られ、堂々と 河内国上哮峯に天降り、大倭国鳥見の白庭山に遷坐、と天孫降臨にひけをとらない話が伝えられている。
この伝承などから大和王朝以前にニギハヤヒの王朝があったのではないかという説も根強く、主に鳥越憲三郎氏、谷川健一氏、安本美典氏などが物部王朝の実在を唱えている。
ニギハヤヒの降臨は邪馬台国の東遷伝承であり、邪馬台国を物部王朝だと主張する鳥越憲三郎氏は『日本書紀』で櫛玉饒速日命が神武に先立って大和の地に降り立っていた事績をあえて記したことは、『易経』による革命思想に基づくもので、単なる権力闘争ではなく、天命が改まって前王朝を更迭したと一般的に周知させる必要があったためだと述べられている。(『女王卑弥呼の国』 鳥越憲三郎 中公業書)

ただし、谷川健一氏は、物部氏の王朝が北九州から東遷し、後から東遷した邪馬台国に滅ぼされたと述べ、鳥越氏の主張を否定するように(『白鳥伝説』 谷川健一 集英社)、物部王朝の実在を主張する研究者の間でも物部王朝の性格については議論が別れている。


他に、宗教学者の松前健氏は、大王家の降臨伝承よりも早く唱えられ、一般的に知られていたために朝廷もそれを無視することが出来ず、記紀に収録されたと述べられている。(『謎解き日本神話』 松前健 大和書房)

一方で、物部氏の末裔である石上麻呂の頃に崇仏論争以来衰えていた権勢を取り戻し、石上麻呂が『日本書紀』編纂にも影響を及ぼしたためにニギハヤヒの伝承が創作されたという説がある。
また、直木孝次郎氏は『日本神話と古代国家』(講談社学芸文庫)で、神武東征の物語は、この壬申の乱を擬えた物語ではないかと述べており、主に入門者向けの書籍などではこの説を紹介される事が多いようです。
例えば天武天皇(大海人皇子)と神武天皇の行程が似ており、大和の戦いであり、もっとも功績が大きかったのは大伴氏である事が共通しており、そして、物部氏は壬申の乱の頃に物部氏の中心人物である物部(石上)麻呂は、はじめは天武の敵対者である大友皇子に従い、皇子の最期に立ち会うほど信任を得ていたが乱後は天武朝に仕えて優遇され、その後も一族は栄えるなど、ニギハヤヒとの行動との類似点が多いと指摘しているため、『日本書紀』が書かれた時代に近くなってから(七世紀後半頃)創作されたという可能性も否定できない。(ただし、直木氏は別の著作(『日本古代国家の構造』)で、継体期の動乱を神武東征に擬えたという説も唱えている)
あるいは、大伴・物部氏の最盛期である六世紀中葉の帝紀・旧辞が述作された時代の勢力関係が繁栄されたに過ぎないという井上光貞氏の説(「古代国家形成の諸段階」)があり、恐らくこれが妥当な見解だろうか?
弥生時代に使われていた青銅器(銅剣、銅鐸)に関する記憶が『風土記』の銅剣、『続日本紀』の銅鐸のそれぞれの発見記事を見る限り、既に失われているように、恐らく大王家も物部氏も弥生時代からずっと神話を語り継いでいたとは考えずらい。

ニギハヤヒの正体については複数の説があり、例えば石上神宮ではニギハヤヒが祀られていない事から、物部氏の神はフツヌシであり、ニギハヤヒは後世に創作された神であるという戸矢学氏のような意見もある。(『ニギハヤヒ 『先代旧事本紀』から探る物部氏の祖神』 河出書房新社)
また、素戔嗚尊の子、大歳神をニギハヤヒと結びつける説もある。(真偽はとにかく面白いので当サイトのアカイイトSS紅紡ではその説を取り入れています。ですが、この説を唱え始めた原田常治氏の悪名高い伝説のトンデモ本『古代日本正史』は正直読むに堪えず途中で読むのを止めました。。。)

私見を言えば、国譲り等で活躍したタケミカズチの神話というのは、本来物部氏の祖神ニギハヤヒの神話だったのではないかと思う。『古事記』でカグツチの神がイザナギに斬り殺された際に剣の本からミカハヤヒ、ヒハヤヒ、タケミカズチ(又の名をタケフツ、トヨフツの神)が誕生したとあり、ミカハヤヒ、ヒハヤヒが揃って太陽神であることを思わせる名前であるのに対し、雷、あるいは剣の神であるタケミカズチが誕生するのは不自然であり、後世藤原氏により挿入されたのではないかとも言われているが、本来は名前が同じく「ハヤヒ」の語を持つ太陽神ニギハヤヒが誕生したという神話だったのではないのか。タケミカズチの別名タケフツ、トヨフツがフツヌシを思わせるのは、物部氏の神がモチーフであった名残だろうか。また、タケミカズチはそれ程古くない神であるらしく、その証拠に『常陸国風土記』では香島大神と呼ばれ、タケミカズチの名は登場しない。 記紀でニギハヤヒの出自が不明なのは、恐らく大化の改新以降、新しく台頭した中臣氏による「新しい神」タケミカズチにとって代わられたからであろう。

『日本書紀』崇神紀には天皇の命により、物部氏の一族、矢田部造の祖先タケモロスミを派遣し、出雲国造家の家宝を献上させようとする記事が出てくる。また、『日本書紀』垂仁紀には物部十千根に命じて出雲の神宝を検校させ献上させている。 出雲国造の家宝の徴収にそのつど物部氏が介在した記事があるが、これはタケミカズチが出雲の国譲りを迫った神話を想像させる。

また、強引に考えるならば、神武紀では熊野の神の毒気を浴びて気を失っていた神武天皇軍を助ける為に、タケミカズチがタカクラジに命じ、フツノミタマを天皇に献上することで皇軍が目を覚ます話があり、このタカクラジは別名アマノカゴヤマノミコトといい、『先代旧事本紀』によれば天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の子である為、ニギハヤヒ側の武将であるナガスネヒコと戦っていた神武天皇を助けるのは言わば裏切り行為であり、釈然としないが、これが本来はタケミカズチというタカクラジにとって縁もゆかりも無い神ではなく、父親のニギハヤヒ(=アマノホアカリ)から命じられたとすればストーリー的には辻褄が合う。ただし、この場合は『先代旧事本紀』のようにニギハヤヒとホアカリが同一神であればという前提なので少々無理があるが……。
(因みにこのタカクラジは後に草薙剣を奉る尾張連の祖である。当サイトの小説「アカイイトSS〜紅紡」では裏切り者として完全な悪役になっています(オイ))


画像:布都御霊剣 『石上神宮宝物誌』 石上神宮 編
(国立国会図書館デジタルコレクションより著作権切れ画像使用)

記紀ではニギハヤヒの出自がはっきりせず、『新撰氏姓録』では天孫より下と見られている天神に分類された事により、物部氏の末裔の一族はそれを良しとせず、『先代旧事本紀』では天孫である尾張氏の祖、ホアカリノミコトと習合し、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊という存在を作り上げたと言われているが、この事が益々ニギハヤヒの正体を解り難くしている感が否めない。
また、タケミカズチと共に誕生したヒハヤヒ、ミカハヤヒという太陽神が如何なる神であったのか記紀には伝えられていないが、皇祖神を太陽神天照大御神とする記紀神話では、天照以前の地域ごとに祭られていたローカルな太陽神を認める訳には行かないという事情もあったはずだ。恐らくニギハヤヒも独自の太陽神として伝承があったのかもしれないが、それを語るのは許されないことだったのだろう。

辛うじて太陽神としての性格が残されているものとしては、神武即位前紀では皇軍が長髄彦との戦いの際に、金色の霊妙な鵄が神武天皇の弓の先に止まり、その鵄が光り輝き、光に撃たれ目が眩んだ長髄彦の軍が敗退した事が記されている。鵄に因み登美の邑の由来であると伝えられているが、登美の地(三輪山)にかけて限られる饒速日尊の威光を、登美を鵄にかけてあらわして、饒速日尊を光り輝く太陽神としているものという説がある。金色の鵄はエジプト神話のホルスのような太陽神を想像させる。エジプトのホルスは隼の姿をしていたものが後世、人の形に変っていくが、ニギハヤヒの神話も本来そのようなものであったのかもしれない。

・『因幡国伊福部臣古志』による系図

大己貴命―五十研丹穂命―健耳丹穂命―伊勢丹穂命―天沼名桙命―天孫桙命―荒木臣命―櫛玉饒速日命―可美真手命―……(以下省略)

二代目の「五十研丹穂命」は『先代旧事本紀』「天孫本紀」の「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」の別名としてあげている「膽杵磯丹磯杵穂命」に通じるからこの神は「火明命」に他ならないと知られる。(『古代の鉄と神々』 真弓常忠 学生社)
また、記紀では出自が不明な饒速日命について、この系図では大己貴命の裔であると伝えている。
信憑性に欠けるのではないかと思うが、『播磨国風土記』餝磨伊和の里の項では大汝命(=大己貴命)の御子を火明命(=五十研丹穂命?)とする伝承を載せており、また、『新撰氏姓録』では

「伊福部宿祢 尾張連と同祖、火明命の後なり」

と伝えていることから単なる造作とも言い切れない面がある。

・『古語拾遺』の物部の記事

「物部氏の遠祖であるニギハヤヒノミコトは、敵を誅殺し、大勢の従軍兵を引き連れて皇軍に順する。その忠誠を尽くした功績に対して、特別に褒賞と厚遇をいただく。」(神武天皇の東征と橿原奠都)

神武東征の際、ニギハヤヒがナガスネヒコを討って神武天皇に帰順したという記紀の記述を簡略に述べたものである。

 

「ニギハヤヒノミコトは、宮廷内の物部を引き連れて(大嘗祭用の)矛・盾(=儀杖用の武器)を製造し、準備する。その祭祀具が準備されて、天富の命が、各地にいる斎部を引き連れて、天璽(=天子のしるし)としての鏡・剣を奉げ持って、正殿に安置申し上げ、また、玉を懸け、その神に捧げ供えるすべての物を陳列して、大殿祭の祝詞を奏上する。その次に皇居のご門を祭る。そのようにしてから物部が、そこで矛と盾とを(儀杖として)立てる。(続いて)大伴と来目とが武器を(儀杖として)立て、(皇居の)門を開いて、四方の国々(の首長ら)を宮殿に参集させて、天位が尊貴であることを参観させる。」(天皇即位に伴う大嘗祭の神事)

宮門に矛・盾を立てるのは大嘗祭や元日の儀礼で行われ、遷都の際を示すことにも行われており、『続日本紀』によると、物部氏の後裔である石上氏と榎井氏により行われていたと記録されている。物部氏の一族が宗教的儀礼において大きな役割を果たしていた事をしめすのであろう。

 

■『日本書紀』の物部氏に関する主な記事

 

・物部の祖に関する伝承

『日本書紀』祟神紀(第十代天皇)

御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)は開花天皇の第二子である。母を伊香色謎命(いかがしこめのみこと)という。物部氏の先祖、大綜麻杵(おおへそき)の娘である」(天皇即位)

神武天皇と同じくハツクニシラスの和風諡号を持ち、通説では事実上の初代天皇と見なされている祟神天皇の母親は物部氏から出た事が記載されているが、史実ではないと言われている。 ただ、よく言われているように皇室に后を出すことを豪族の服従であると考えれば、物部氏の母系集団が大王に服従したという見方も出来なくはない。

「七年(紀元前九十一年)十一月三日伊香色雄(いかがしこお・物部氏の祖)に命じて沢山の平瓮を祭神(大物主)の供物とさせた」(大物主大神を祀る)


平瓮 (撮影場所 江戸東京博物館)

『日本書紀』垂仁紀(第十一代目天皇)

「三十九年(紀元十年)冬十月、五十瓊敷命(いにしきのみこと)は、茅渟の菟砥の川上宮においでになり、剣一千口を造らせた。よって川上部という。またの名を裸伴という。石上神宮に納めた。この後に五十瓊敷命に仰せられて、石上神宮の神宝を掌らせられた。―ある説によると、五十瓊敷皇子は、茅渟の菟砥の河上においでになり、鍛冶の名は河上と言う者をお呼びになり、太刀一千口を造らせた。この時に楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部などを合せて十種の品部を、五十瓊敷皇子に賜った。その一千口の太刀を忍坂邑に納めた。その後、忍坂から移して石上神宮に納めた。この時に神が「春日臣の一族で、名は市河という者に治めさせよ」といわれた。よって市河に命じて治めさせた。これが物部首の先祖である。

春日臣とは仁賢、安閑、欽明朝に皇紀を輩出し、この頃繁栄した氏族と言われている。

「八十七年(紀元五十八年)春二月五日、五十瓊敷命が妹の大中姫に語っていわれるのに、「自分は年が寄ったから、神宝を掌ることができない。今後はお前がやりなさい」といわれた。大中姫は辞退していわれるのに、「私はか弱い女です。どうしてよく神宝を収める高い宝庫に登れましょうか」と。五十瓊敷命は「神庫が高いと言っても、私が梯子を造るから、庫に登るのはが難しいことはない」と。諺にもいう「天の神庫は樹梯のままに」というのはこれがそのもとである。そして大中姫命は、物部十千根大連(もののべのとちねおおむらじ)に授けて収めさせられた。物部連らが今に至るまで、石上の神宝を納めているのはそのためである。」(石上神宮)

石上神宮は現在、奈良県天理市布瑠町に祀られている。「石上坐布瑠御魂神社」と呼ばれ、この神社には百済の王が倭の王に送ったと伝えられている国宝「七支刀」が所蔵されている。この神社は単に刀剣を祀る神社というだけでなく、大和朝廷の武器庫としての性格がある。また、出雲の神宝をはじめ、地方豪族の祀っていた神宝が接取され、この神社に収められた。軍事的な拠点でもあり、それを管理していたのが物部氏である。

他にも物部氏の先祖に関する伝承として、『先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀』では饒速日命の7世の孫、大新河命が垂仁天皇より物部連公の姓を賜ったという記述がある。

直木孝次郎氏によると、物部氏の成立は、部民制度(大王や氏の支配を受けた部曲・品部・名代・子代といった民衆をまとめて部民と呼んだ)が確立した五世紀中葉から後半のことであり、物部氏が「部」を管理する役割を担っているのだから、「部」の制度がまず出来て、それから物部氏が誕生したと述べている。だが、物部氏の先祖にあたる集団はそれ以前から活躍していたのではないだろうか?

 

『日本書紀』仲哀紀(第十四代天皇)

「九年(紀元二百年)春二月五日、(仲哀)天皇は急に病気になられ、翌日はもうなくなられた。時に、年五十二。すなわち、神のお言葉を採用されなかったので早くなくなられたことが伺われる。(神功)皇后と大臣武内宿禰は、天皇の喪をかくして天下に知らされなかった。皇后は大臣と中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部胆咋(もののべいくいのむらじ)・大伴武以連に詔して、「今天下の人は天皇のなくなられたことを知らない。もし人民が知ったなら気がゆるむかもしれない」と言われ、四人の大夫に命ぜられ、百寮を率いて宮中を守らせた」(神の啓示)

大夫とは如何なるものなのかはっきりしない。『先代旧事本紀』巻第五 天孫本紀では「食国の政を申す大夫は今の大連大臣是はり」と書かれている。つまり、当時の大連や大臣の事であるというが本当だろうか?
七世紀前半に大臣に次ぐ有力者を組織した地位も大夫というが、これは聖徳太子が皇族と大臣で政治に当たる体制に代わってより多くの豪族の意見を聞いて政治を運用しようと考え、有力豪族から大夫を選ぶようにしたものであり、仲哀朝の物とは別であろう。
また、天智朝に左大臣、右大臣につぐ地位に御史大夫という者が置かれ、これは官僚の不正を取り締まった中国の御史大夫に似たものだったらしいが、仲哀朝の大夫と同じものであるかは解らない。
あるいは、篠川賢氏によると、八世紀ごろの議政官を反映させたものであるらしく、これ以前の垂仁朝の五大夫は和銅元年(七〇八年)三月の議政官達と一致する氏族構成なので、この時代に作成された記事であり、仲哀朝の四大夫も八世紀の議政官の構成氏族に基づいて作成された記事であるという。(『日本古代氏族研究叢書 物部氏の研究』 篠川賢 雄山閣)確かに和銅元年には左大臣に石上麻呂(物部氏の末裔)。右大臣に藤原不比等(中臣氏の末裔)。中納言に中臣意美麻呂。大納言に大伴安麻呂が居る。文武朝まで遡れば中納言に大神(大三輪)高市麻呂が存在していた。

これまで祭祀を中心として治世が行われたという所謂、三輪王朝と呼ばれる時代の伝承を取り上げてきた。王朝の性格上、祭祀に係わる説話が多いようだが、物部氏のもう一つの柱である武を示す伝承は少ない。


・物部氏の発展期

『日本書紀』履中天皇紀(第十七代天皇)

「二年(紀元四〇一年)春一月四日、瑞歯別皇子を立てて皇太子とした、冬十月、磐余に都を造った。この時、平郡木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)蘇我満智宿禰(そがのまちのすくね)物部伊弗大連(もののべのいこふつおおむらじ)円大使主(つぶらのおおみ)らは、共に国の政治に携わった。 」(磐余稚桜宮)


円大使主とは葛城氏の長、葛城円の事である。内容を鵜呑みすれば文献・遺跡の調査結果などから5世紀の頃に巨大な勢力を誇っていた事が確実視される葛城氏や武烈天皇の時代に権勢を振るい、日本の王にまでなろうとしたと伝えられる平郡氏という大豪族と肩を並べたということになるが、葛城・平郡の衰退後に台頭するのは大伴氏であり、物部が大和朝廷において最大の影響力を持つのはその後になるようだ。


『日本書紀』安康即位前記(第二十〇代天皇)

「冬十月に(允恭天皇の)葬儀が終わった。この時、皇太子である木梨軽皇子が婦女(実の妹の軽大娘皇女)に姦通したことを、国人たちはそしった。群臣が服従しなくなり、全ての人が穴穂皇子についた。そこで軽太子は穴穂皇子を襲おうと兵士を用意した。(中略)群臣は軽太子に従わず、人民たちも離反してく事を知って、物部大前宿禰の家に身をひそめられた。穴穂皇子はそれを聞いて、宿禰の家を兵士に取り囲ませた。大前宿禰は門に出てきて、穴穂皇子をお迎えすると、穴穂皇子は歌を詠んで言われた。
オホマヘ、ヲマヘスクネガ、カナトカゲ、カクタチヨラネ、アメタチヤメム
(大前、小前宿禰の家の、金門の蔭にこのように皆立ち寄りなさい。雨宿りをして行こう。)
大前宿禰は返歌をして申し上げた。
ミヤヒト、アユヒノコスズ、オチニキト、ミヤヒトトヨム、サトヒトモユメ
(宮廷にお仕えする人の足結につける小鈴が落ちたと、人々がどよめいている。不吉な事です。里を下っている人たちも気を付けなさい。)
そして、皇子に「どうか皇太子を殺さないでください。手前が何とかお図りしましょう」と申し上げた。こうして軽太子は、大前宿禰宜の家で自殺をされた。一説には伊予国に流しまつったという。」(木梨軽の死)

これは木梨軽皇子が行った近親相姦が許されず、弟の穴穂皇子(後の安康天皇)により追い詰められ、物部大前宿禰を頼ったという内容であるが、雄略即位前紀にも安康天皇を殺害した眉輪王が葛城円を頼るという類似の話が伝えられている。葛城円は雄略により攻め滅ぼされたが、大前宿禰の時は事無きを得ている。似たような事件でも、葛城氏と物部氏の、その後の盛衰を表しているようで興味深い。
なお、『古事記』にも類似の話があるが、こちらは大前宿禰が軽太子を差し出すという、何とも情けない話になってしまっている。


『日本書紀』雄略紀(第二十一代天皇)

「七年(紀元四六三年)八月、天皇は吉備下道巨前津屋が謀反を企んでいる事を聞いて、物部の兵士三〇人を送って前津屋とその一族七〇人を殺させた」(吉備臣)

「十八年(紀元四七四年)三月一日(雄略天皇は)物部菟代宿禰(もののべのうしろのすくね)・物部目連を遣わせて、伊勢の朝日朗(あさけのいらつめ)を討たせられた。朝日朗は官軍が来たと聞いて、伊賀の青墓に迎え戦った。弓の名人であることを誇り、官軍に告げ、「朝日朗の相手に誰があたることができるか」と言った。その射る矢は二重の甲を射とおした。官軍はみな怖れた。菟代宿禰はあえて進まず、対峙する事二日一夜に及んだ。物部目連は自ら大刀をとり、筑紫の企救の物部大斧手に楯をとらせ、雄叫びをあげて突き進ませた。朝日朗は遥かに眺め、大斧手の楯と二重の甲を射通し、さらに一寸はいった。大斧手は楯を持って、物部目連を庇った。目連は朝日朗を捕まえ殺した。」(朝日朗)

雄略紀のこれら記述は事実ではないとされており、(朝日朗討伐の話は、『伊勢国風土記』逸文の天日別が伊勢津彦を服従させた話が原型らしい)雄略朝の頃に物部氏が大連(地方豪族が「臣」のカバネを用いたのに対し、朝廷の様々な職務を分担した伴造系の豪族を「連」といい、とくに朝廷の政務にかかわったものを「大連」と言った)の地位について成長していったのがこの時期と言われている。
親族の殆どを殺し、専制的な君主であると言われる雄略天皇は盛んにいくさを行っていたようで、有力豪族の葛城氏・吉備氏がこの時代から次第に押さえ込まれていった。吉備氏は朝廷に出仕していた人物でも吉備の領域に帰れば朝廷の命よりも吉備氏の命に従わせていた。このような有力豪族と大王家の二重支配から、大王家の一極支配への過渡期であり、大王家の力が増すのに伴い、大王家をバックアップした大伴氏・物部氏も勢力を伸ばして行ったと考えられる。(ただし、雄略が身内を殺し過ぎた為、独裁的な支配は雄略一代しか続かなかったともいう)
物部を称する地方の中小豪族が多く見られることも、大和朝廷が地方への支配をのばすさいに、物部氏が重要な役割を果たしたことを示している。
ただし、この頃に至っても大連は敬称であって、物部氏が大王と同等の役割を担ったのは継体朝の大連・物部麁鹿火(もののべのあらかい)からであるらしい。

なお、朝日朗の話については、朝日朗の弓と大斧手の楯の威力が語られているが、この事に関して榎村寛之氏は、楯と弓に呪力を認める意識は、令制的な祭祀具として楯と桙の組み合わせが成立する以前の段階の意識であり、持統天皇の即位式において石上麻呂が大楯を立てているのはこの意識に基づいたものであろうとされている。

 

・物部氏の繁栄。大連・物部麁鹿火登場

『日本書紀』継体紀(第二十六代天皇)

物部麁鹿火(もののべのあらかい)大連は「磐井は西の果てのずるい奴です。山河の剣呑なのをたのみとして、恭順を忘れ乱を起こしたものです。道徳に背き、驕慢でうぬぼれています。私の家系は祖先から今日まで、帝のために戦いました。人民を苦しみから救うことは昔もいまも変わりませぬ。ただ天の助けを得ることは、私が常に重んずるところです。よく慎んで討ちましょう」といった。
詔に、「良将は出陣に当たって将士をめぐみ、思いやりをかける。そして攻める勢いは怒涛や疾風のようである」と言われ、また、「大将は兵士の死命を制し、国家の存在を支配する。つつしんで天誅を加えよ」と言われた。天皇は印綬を大連に授けて、「長門より東は自分が治めよう。筑紫より西はお前(麁鹿火)が統治し賞罰も思いのままに行え。一々報告する必要は無い」と言われた。」
「二十二年(紀元五八二年)冬十一月十一日、大将軍物部麁鹿火は、敵の首領磐井と筑紫の三井郡で交戦した。両軍の旗や鼓が相対し、軍勢のあげる塵埃は入り乱れ、互いに勝機をつかもうと、必死になって戦って相譲らなかった。そして麁鹿火はついに磐井を切り、反乱を完全に鎮圧した。」(磐井の反乱)

この辺になると恐らく歴史教科書にも登場するかの有名な「磐井の乱」で、継体天皇が傍線部の言葉を言われるほどの信任を得た大連・物部麁鹿火により乱は平定される。
継体天皇が傍線部の台詞を述べたかの真偽は別として、少なくても磐井の乱鎮圧をきっかけとして物部氏が大きく飛躍する事になったのは事実であることを多くの学者が認めているようだ。


福岡県八女市 岩戸山古墳出土 石人(撮影場所・東京国立博物館 考古展)
『築後国風土記』によると磐井は豊前の国へ逃亡し、怒った朝廷軍は磐井が生前に造った墓の石馬の頭を打ち落とし、石人の腕を撃ち折ったとある。

『日本書紀』宣化紀(第二十八代天皇)

「元年(紀元五三六年)五月一日(宣化天皇が詔して)「応神天皇から今に至るまで、籾種を収め蓄えてきた。凶年に備え賓客をもてなし、国を案ずるのに、これにすぐるものはない。そこで自分も阿蘇君を遣わして、河内国茨田郡の屯倉の籾を運ばせる。蘇我大臣稲目宿禰は尾張連を遣わして、尾張国の屯倉の籾を運ばせよ。物部麁鹿火は新家連を遣わして、新家屯倉の籾を運ばせよ。阿部臣は伊賀臣を遣わして、伊賀国の屯倉の籾を運ばせよ」(那津(筑紫)官家の整備)

この詔は漢籍による多くの装飾が加えられており、『日本書紀』編纂段階の作文であるとされていますが、何らかの原資料に基づいたものではないかといわれている。阿部臣・蘇我稲目・物部麁鹿火は天皇に命じられたということもあるが、それぞれ天皇と同等の役割を担い、それぞれの勢力下にあった人物を遣わして、それぞれの関係ある屯倉の穀を運ばせたということが推定される。この記事から、当時の政権がなお連合政権的な性格を残していたことが推定され、その一翼を担ったのが物部氏である。


 

『日本書紀』欽明(第二十九代天皇)紀

「元年(紀元五四〇年)九月五日、天皇が群臣に、「どれだけの軍隊があれば新羅を討てるか」と尋ねた。すると、物部大連尾興らが奏して「少しばかりの軍隊では、たやすく征討できません。というのは、昔、男大迹(継体)天皇六年(紀元五一二年)に、百済が使者を送って任那の上哆唎・下哆唎・婆陀・牟婁の四県を求めたからです。その時に、大伴大連金村は、たやすく百済の求めのままにそれを与えたのです。そのために新羅は長年にわたって日本を恨んでいますから、軽々しく新羅を攻められません」と言った。そのことによって、大伴大連金村は、住吉の宅に退いて、病気と言って朝廷に参らなくなった。」(大伴金村の失脚)

欽明朝になってから継体天皇の時代の話を持ち出す不自然さもあり、この話は史実ではないらしいが、平郡真鳥追討などの功績をあげ、雄略朝〜欽明朝までの長い間天皇家の下で権勢を振るった大伴氏が物部氏と対立し、この頃から衰退していった事は事実であるらしい。
有力豪族の大伴氏の衰退により物部氏と蘇我氏が台頭し、いよいよ二氏の対立・崇仏論争へと繋がっていく。

 

・崇仏論争。物部氏の衰退

『日本書紀』欽明紀(第二十九代天皇)

「十三年(紀元五五二年)十月百済の聖明王が、西部姫氏達率怒唎斯契らを送って、釈迦仏の金銅像一体と、いくつかの幡蓋・何巻かの経論を献上した。(中略)蘇我大臣稲目は「西の国がみんな拝む仏でありますから日本だけが拝まないわけにはいきません」と申した。ところが物部大連尾興と中臣連鎌子は、同じように「我が国の王は、天地祖先の多くの神々をいつも祭っています。いまそれを改めて蕃神(外国の神。ここでは仏を指す)を拝めば、おそらく日本の神がお怒りになるでしょう」と申し上げた

物部氏は、屯倉の経営などを通じて渡来人と組んで大陸文化を身につけ成長した蘇我氏への反感から、仏を祭れば神が怒ると反発したと言われている。以来、物部と蘇我の対立は抜き差しならぬものとなって行き、二氏の争いは物部守屋・蘇我馬子の代に「丁未の変」で決着がつくまで続くことになる。


『日本書紀』敏達紀(第三十代天皇)

「<十四年(紀元五八五年)>秋八月十五日、天皇は病が重くなり大殿で崩御された。この時、殯宮を広瀬にたてた。馬子宿禰大臣は、刀を佩びて死者を慕う (しのびごと)を述べた。物部弓削守屋大連は嘲笑って「猟箭(ししや)で射られた雀のようだ」といって、小柄な身に大きな大刀を帯びた馬子の不格好な姿を笑った。次に弓削守屋大連は、手足を震わせわなないて誄を読んだ。馬子宿禰は笑って「鈴をつけたら面白い」といった。ここから二人の臣はだんだん怨みを抱きあうようになった。」(敏達天皇の崩御)

敏達天皇の崩御の際、物部と蘇我の緊張状態を伝えるエピソードとしてよく知られている。大の大人がみっともなくみえるが、平林章二氏の『蘇我氏の実像と葛城氏』(白水社)によると、蘇我馬子がこのような仕草をしたのは儀礼的な意味があるという面白い説を唱えている。中国の『礼記』にも雀の跳ねるような仕草をすることが書かれているため、古代日本でも当時の中国の喪装儀礼を導入し蘇我氏が整備したため、物部守屋が蘇我馬子の所作をあざ笑い、両者の対立が激化したという話が成立したという。
事実であるとすれば、祭祀の分野でも物部氏の地位が圧迫されており、物部守屋の焦りがあったのだろう。この後、物部守屋は、穴穂部皇子という傍若無人な振る舞いを続けていた(創作の疑いもあるが)皇子を立てようとして、守屋と共に廃仏を行おうとしていた協力者の大三輪逆君を攻め滅ぼしてしまうという愚行を犯す。
大三輪逆君は敏達天皇の崩御の際、守屋と馬子の間が不穏になった為、隼人を使い殯宮を警備し、両者を牽制したり、炊屋姫皇后(後の推古天皇)を犯そうとした穴穂部皇子を押し止めるなど、正義感が強い立派な人物であったことが伺える。穴穂部皇子は逆恨みにより、守屋に命じて大三輪君逆を攻めさせ、数少ない守屋の協力者を自ら殺さざるを得なくなった。このようにして、穴穂部皇子如きを推さざるを得なくなった時点で、長い歴史を誇る物部氏の命運は尽きてしまった。


『日本書紀』祟峻即位前紀(第三十二代天皇)

「用明二年(紀元五八七年)七月二十一日、蘇我馬子宿禰大臣が、諸皇子と群臣に物部守屋大連を滅ぼすように勧めた。そこで、泊瀬部皇子・竹田皇子・厩戸皇子(聖徳太子)・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀拕夫・葛城臣鳥加那羅がともに軍平をひきいて志紀郡から物部守屋の渋河の家に向かった。」(丁未の変)

所謂「丁未の変」が起こり、蘇我馬子を中心とした連合軍と物部守屋軍が戦う。脚色があると思われるが、奇襲をされたにもかかわらず、三度にわたり連合軍を押し返した物部は流石武門の一族であると言えるが、部下の迹見赤檮(とみのいちい)の裏切りにより守屋が殺される。
聖徳太子が四天王に勝利を祈った事など、戦いの様子は伝説の域を出ないとしても、敗れた物部氏が大きく衰退したのは事実であり、以後、天武朝の頃から重用された石上麻呂が登場する一世紀程後まで、物部氏が政治の中枢で政務を担う事はなかった。
この後、馬子・蝦夷・入鹿と三代に渡り権勢を誇った蘇我氏を大化元年(六四五年)滅ぼしたのは、かつて崇仏論争で物部氏の協力をした中臣氏の一族の後裔、鎌足(後の藤原鎌足)であり、中大兄皇子(後の天智天皇)の重鎮として鎌足は仕え、後世の藤原氏の基盤を造って行く事になり、物部と中臣の立場は逆転することになる。

葛城→平郡(創作の疑いもあり?)→大伴→物部→蘇我と持ち回りしていた権力を中臣(藤原氏)が掌握し、以降、他の豪族との争いより、殆どの時を藤原氏身内同士の権力闘争に明け暮れる事になる。

・物部の復興 石上(物部)麻呂登場

『日本書紀』天武天皇即位前紀(第四十代天皇)

「(紀元六七二年)七月二十三日、大友皇子は逃げる所が無くなった。そこで引き返して山崎に身を隠し、自ら首をくくって死んだ。左右の大臣は皆散り逃げた。ただ物部連麻呂と、一、二の舎人だけが皇子に従っていた」(壬申の乱)

天智天皇のあと、近江朝廷で権力を握った大友皇子(天智の子)と吉野にあった大海人皇子(天智の弟)との間に起こった皇位継承に絡む「壬申の乱」が発生する。乱は大海人皇子の勝利に終わり、大友皇子は自殺する。
殆どの者が大友皇子を見捨てて逃げていく中、最後まで皇子に従ったのは物部麻呂と一、二人の舎人のみであったといい、物部麻呂の強い忠誠心が語られている。
この忠誠心が買われたのか? 元来は敵方であったのにも関わらず、後に石上麻呂を名乗る物部麻呂は重用され、藤原氏五百年の繁栄の礎を築いた藤原不比等と並ぶ実力者となってゆく。


『万葉集』巻一、七十六番歌 和銅元年(紀元七〇八年) 天皇御製

「ますらおの 鞆の音すなり 

物部(もののふ)の 大臣 楯立つらしむ」

この歌に言う「物部の大臣」とは石上麻呂を指すと言われ、この頃、天皇が藤原不比等と麻呂の対立に不安を感じていたと解釈されることが多い。
だが、不比等と麻呂の対立ではなく、この歌は平安京への遷都、あるいは天皇に対する不満や不穏な動きを「物部の大臣」が武力・呪力を持って防ごうとしている状況を歌ったもの、すなわち天皇の麻呂に対する信頼が示されている歌と見ることも可能であるという。

『日本書紀』で物部氏が優遇されているのは石上麻呂の影響であり、物部氏の降臨伝承をはじめ多くの話が『日本書紀』編纂段階で創作されたという見方もあるが、仮に屯倉の経営によって宣化天皇の頃に急になりあがった氏族だとしたら、蘇我氏と大して変わらないという事になり、以下のように後世、蘇我がわざわざ物部を名乗った意味が無い。

「皇極二年(紀元六四三年)十月六日「蘇我大臣蝦夷は病気のため登朝しなかった。ひそかに紫冠を子の入鹿に授け大臣の位に擬えた。また、その弟を呼んで物部の大臣といった」

この事は武内宿禰(たけしうちのすくね。景行朝〜仁徳朝の五代の天皇に仕え、三百年を生きたという伝説上の人物)を祖と称する程度の蘇我氏と、遥かに古く天孫・瓊々杵尊に先立ち、この国に降臨された饒速日尊を祖とする伝承を持つ物部氏とでは出自、家柄が比較にならなかったからであると言う。それ程物部は強大有名であったのであるから、その出自は相応に古いものであると考えられないだろうか。
実際のところ物部氏の発生がいつ頃になるのか、議論が分かれるところで、私の知識では判断しかねるが、少なくても部民制度が造られた直後に急に発生した氏族などではないだろう。

■物部氏の伝承を語る『先代旧事本紀』とは?

『先代旧事本紀』には「大臣蘇我馬子宿禰等奉勅修撰」の序があり、推古天皇二十八年(六二〇年)三月、聖徳太子・蘇我馬子に勅命して史書を撰録させたが太子が死んだために成らず、そこで神皇系図一巻、先代国記、神皇本紀、臣連伴造国造本紀十巻にまとめ、これを「先代旧事紀」と名付けたという。この為、古事記、日本書紀に先行する史書と目され、尊重されてきたが、近世中期以降、徳川光圀や伊勢貞丈、本居宣長らにより、本序文に対する本書も後人の手による偽書であるといわれるようになった。更に『先代旧事本紀』をモチーフに江戸時代に『先代旧事本紀大成経』という偽書が作成された為、余計に胡散臭い印象を与えてしまっている。以前、私の父は『先代旧事本紀』を焚書にあった『先代旧事本紀大成経』と混同していた。

実際に本文は『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』と同じ内容の文書が多く見受けられるが、記紀には語られていない物部氏独自の伝承もある事や、「()」「()」「足尼(すくね)」など推古朝まで遡れる用字法があることから、記紀成立以前よりも古い情報が入っているという安本美典氏の説(「古代物部氏と『先代旧事本紀の謎』 勉誠出版社」)がある。
一方で布瑠の言のような物部氏独自の祭祀方法は平安期の密教や陰陽道への対抗意識があって生まれたという斉藤英喜氏のような説もある。だとすれば古くからの家伝ではなく、後世の創作ということになるが、これは平安期の時代背景から想像したものに過ぎず、根拠としては乏しい。(江戸時代後期に古神道が成立したのと背景を同じにする発想だろう)むしろ、石上神宮に神宝を集められていたことから生まれた祭祀であれば、平安朝よりも遥かに遡るので、それなりに古い伝承であったと考えるべきであろう。安本氏の言う様に、『上宮聖徳法王帝説』と同じく成立年代の違う資料を集められたものであるという見解は極めて妥当である。

このように、ある程度記紀以前の伝承も含まれているのではないかと思うが、ニギハヤヒについて述べた様にニギハヤヒの伝承がタケミカズチに置き換えられ、更に政治的な理由で、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊という物部氏の祖神と尾張連の祖神が習合した神を創作してしまった為、本来の伝承が解らなくなってしまったのではないかと思わざるを得ない面も有する。

参考文献
『口語訳 古事記 [完全版]』 訳・脚注 三浦祐之 文藝春秋
『日本書紀(上) 全現代語訳』 宇治谷孟 講談社学術文庫
『日本書紀(下) 全現代語訳』 宇治谷孟 講談社学術文庫
『古語拾遺』を読む」 青木紀元・監修 中村幸弘/遠藤和夫・共著 右文書院
『先代旧事本紀 訓註』 大野七三・校訂編集 批評社
『物部氏の研究』 日本古代氏族研究叢書1 篠川賢 雄山閣
『白鳥伝説』 谷川健一 集英社
『女王卑弥呼の国』 鳥越憲三郎 中公業書
『古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎』 安本美典 勉誠出版
『謎解き日本神話』 松前健 大和書房
『日本神話と古代史』 直木孝次郎 講談社学術文庫
『井上光貞著作集 第一巻』 岩波書店
『ニギハヤヒ 『先代旧事本紀』から探る物部氏の祖神』 戸矢学 河出書房新社
『古代の鉄と神々』 真弓常忠 学生社
『蘇我氏の実像と葛城氏』 平林章仁 白水社
『古神道の本』 学研
『上代説話辞典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣
『古代史入門ハンドブック』 武光誠 著 雄山閣
『弘法大師全集』 巻14 祖風宣揚会 編 吉川弘文館[ほか]
『石上神宮宝物誌』 石上神宮 編

トンデモ上等(笑)記紀や『先代旧事本紀』をモチーフとしたアカイイトの二次小説はこちら→アカイイトSS〜紅紡