金毛九尾狐白面の弧

千羽烏月の祖、千葉常胤と関わる金毛九尾白面の狐退治伝承。

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■金毛九尾白面の狐と千葉常胤の伝承
第72代近衛天皇の久寿年間(1154〜1156)千年の齢を重ねた金毛九尾狐白面の老弧が天竺から我国にやってきた。
天資聡明文才無比。しかも絶世の美女と化し、時の関白忠道に仕え、名も玉藻の前と称して、間もなく寵愛を得て、濃艶なその姿は何人も一見心魂を奪われてしまうのであった。
ところが玉藻の前出現以来、関白は病魔に犯され、彼女を愛すれば愛する程その衰弱は加わり、また玉藻の前がその看病に努めるほど体はやせ細ってきたため、全国から名医霊薬を求めて之を用いたが何の効果も無かった。
止む無く稀代の陰陽師安倍泰成に悪魔調伏の祈祷を行ったところ、ある夜に効果が現れ、大雷鳴と共に玉藻の前の全身から怪光を発し、老弧の姿と化し、あれよあれよと警護の武士の物狂わしい叫びと共に黒雲に乗って東の方へ飛び去った。

その後、妖狐の姿は下野国那須ヶ原に現れた為、三浦介良、三浦義明、千葉常胤、上総介広常にこれを退治するように命じられた。
(伝承によっては千葉常胤の名は見られない。例えば謡曲『殺生石』には登場しない)

命を受けた彼らは那須野原を隈なく借り立ったものの何処にもその姿を見出す事が出来ず。無二無三に篠原の地(川西町大字蜂巣)までやってきた。
茂りあった樹の間に一つの池を見出した士卒達は喜んで水を飲もうと岸に近付くと、岸辺に立った老杉の梢に一匹の大きな蝶が止まっていた。
人々は老杉の影を見ると池に映る蝶の姿が老弧の姿をしている事に気付き、蝶に矢を放ち射立てると老弧の体は水煙を上げて地上に堕ち、忽ち池の水は真っ赤な地に彩られてしまった。

引き上げてよく見ると九尾の狐ではないが、老弧であったので里人はその精霊を池畔に祀り、「篠原稲荷社」と称し、池を鏡の池と呼んだ。
建久四年(1193年)、右大将源頼朝が那須野ヶ原に大巻狩りをした時にこの地を訪れ、一大祠を建立し、玉藻稲荷大明神と呼ばせ、その名が伝えられている。

金毛九尾の狐の方は出没自在の為空を駆け地に潜んで手の下し様も無かったが、やがて那須川山麓に老弧が眠っているところが発見され、これを射殺したところ、屍はそのまま石と化した。

ところが、この化石は後世尚魔性を失わずに、鳥獣蟲魚から人間に至るまで、その近くのものを悉く殺すので殺生石と呼ばれるようになった。

御深草天皇の宝治年間(1247〜1249年)、僧玄翁がこの石の傍に立って仏門の秘法を唱え、「喝」と一言、その手に持った杖で石を打つと石は粉砕された。
その夜、和尚の旅枕に十二一重の盛装の緋袴を付けた高貴な女子が現れ
『お陰様で私は浄戒を得て、天に生まれることが出来申した。有難くお礼申し上げまする』
といい消え失せた。

ある詩人は
「飛ぶものは雲ばかりなり石の上」
と詠じ、松尾芭蕉は
「石の香や夏草赤く露あつし」
の一句を残して去った。


『能樂圖繪前編』上 耕漁 [画] 松木平吉より「殺生石」

■殺生石について
火山活動が活発な地帯では噴気孔から噴き出る硫化水素・亜硫酸ガス・炭酸ガスなどのために近寄った鳥や昆虫類が死ぬ事があり、時として人間が落命する事がある。
そのため、人は噴気孔近くの岩石を殺生石と呼んで恐れた。

栃木県那須郡那須町の殺生石は謡曲にも取り上げられ広く知られている。
鳥羽法皇の寵姫玉藻の前は金毛九尾の狐である正体を見破られ、逃げ込んだ那須の原で殺された。

だが、その霊が石と化し、鳥や虫を殺して祟った。そのため玄能(玄翁)和尚が、金槌で殺生石を砕き妖怪を退治した。この時に使った金槌を和尚の名にちなんで玄能と呼ぶようになったという。

この時砕け散った殺生石が各地に飛び散ったと伝えられ、同様の伝説が各地に流布しています

謡曲「殺生石」には玄能の由来や金毛九尾の狐の話は出てきません。
ことさら日本では九尾の狐妲妃の話が取り上げられますが中国において九尾の狐は
吉祥の証として、また子孫繁栄の象徴とも言われています

参考文献
『昔話・伝説小事典』野村純一 佐藤涼子 大島広志 常光徹=編 みずうみ書房
『蒲生君平の生涯 : 勤王処士』 小林友雄 著 大同館書店
『能樂圖繪前編』上 耕漁 [画] 松木平吉 国立国会図書館近代デジタルコレクションより著作権切れ画像使用