古典における「主」(天香々背男・天津甕星)の記述

アカイイトの最終ボス天津甕星は古典ではどのように記されているのか?

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『日本書紀』 巻第二 神代下 葦原中国の平定

1.二柱(経津主神・武甕槌神)は邪神や草木・石に至るまで皆平らげられた。従わないのは、星の神の香香背男だけとなった。そこで武葉槌命を遣わして服させた。

2.一書(第二)にいう。天神が経津主神・武甕槌神を遣わされて、葦原中国を平定させられた。ときに二柱の神がいわれるのに、「天に悪い神がいます。名を天津甕星といいます。またの名を天香々背男です。どうかまずこの神を除いて、それから降って、葦原中国を平定させて頂きたい」と。このとき甕星を征する斎主(いわい)をする主を*斎の大人(うし)と言った。この神はいま東国の香取の地においでになる。 

*斎の大人(うし)=経津主神の事である。

『先代旧事本紀』 巻第三天神本紀にも2.と同等の内容の記述あり

1.の武葉槌命が天津甕星を服させた逸話は有名だが、2.の記述をみると、経津主神が天津甕星を征したようにも読める。


大甕神社社伝(『邪神記』 竹内健 現代思潮社より抜粋)

「香香背男が海辺に近い大甕山に住して思うがままの自由な振る舞いをしてやがて天孫の勅命を奉ぜぬ迄に増長して、遂に悪神の汚名を被った彼を建甕槌・経津主命この二大武神が攻めあぐんだ甕星香香背男を一挙にして誅伐された武葉槌命の武勇も又非凡であった」

なお、アカイイトの設定で参考にしたと思われる「大甕倭文神宮縁起」については神社伝承に関する膨大なデータベースで著名な神南備氏がHPで概要をご紹介なさっています。


『先代旧事本紀』 巻第三 天神本紀

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)と共に天降った32人の防衛の中に以下の存在が記されている)

・天背男命 山城久我直等の祖

・天背男命(天背斗女命) 尾張中嶋海部直等の祖

(五部)

・筑紫弦田物部等の祖天津赤星

(天磐船の船長)

・為奈部等の祖天津赤星

 

天背男命は『日本書紀』の天香々背男、あるいは天津甕星は天津赤星と同一の存在として語られる事が多い。(竹内健の『邪神記』の「星神香香背男考」に詳しい論証がある。また、谷川健一の『白鳥伝説』でも少し触れられています)
追記:以下の田中卓氏の論文に天背男や天津赤星について触れられています。興味がございましたらご覧ください。但し、まともに古代史を勉強していると些か奇異に感じる内容かも知れません。
第一次天孫降臨とニギハヤヒノ命の東征

駄文書き的発想だと、天神も地上に降り、「カカ」=輝きを失い「天背男命」となったと想像をしてしまうのは余りにも安易でしょうか?

なお、天背男命と同じく山城久我直等の祖として『先代旧事本紀』巻一 神代本紀では天神立命も記されている。

 

『新撰姓氏録』

(下記のリンク先で近代デジタルライブラリーの「新撰姓氏録考証 / 栗田寛,吉川弘文館, 明33.1」のPDFテキストを閲覧出来ます)

・左京神別中「宮部造。天壁立命子天背男命之後也

 この天壁立命は天神立命と同じ存在だとも言われています。

・山城国神別中今木連条では「今木連神魂命五世孫阿麻乃西乎乃命之後也

『新撰姓氏録考証 』 の栗田寛は阿麻乃西乎乃命(アマノセオノミコト)と天背男命が同じであると思うと述べています。

・『先代旧事本記』では天背男命と同じく山城久我直等の祖天神立命について河内国神別には「役直。高御魂尊孫天神立命之後也

 

『新撰姓氏録』および『先代旧事本紀』から想定される主様の系図

1.左京神別と河内国神別の系図、『先代旧事本紀』から想定した場合
高御魂尊(高皇産霊尊) ―○― 天神立命(=天壁立命?) ―天背男命(主様?) ―・・・― 宮部造・山城久我直等

2.左京神別と山城国神別中今木連条から想定した場合(『新撰姓氏録考証』 栗田寛の説)
神魂命(神皇産巣日尊)―○―○―○― 天壁立命 ― 阿麻乃西乎乃命(=天背男命? 主様?) ― ・・・ ― 今木連・尾張中嶋海部直等


 

この様に、代表的な文献を見る限りではアカイイトの主様が国津神であり、八岐大蛇の子孫であるという設定の根拠は確認出来ませんでした。なお、『新撰姓氏録』では天背男命は天神に分類されています。
アカイイトでは「カカ」が蛇だという解釈のようですが、天香々背男の「カカ」に関しては一般的には「輝く」という意味で解釈されています。
なお、実際のところ天香々背男の「カカ」とは関係無いでしょうが、蛇の古語「カカ」と「ハハ」に関する話は、恐らく麓川智之氏が参考にしたと思われる吉野裕子の著書『蛇 日本の蛇信仰』(講談社学術文庫)に詳しく書いてあります。

 

【追記1】
先に述べた竹内健の『邪神記』谷川健一の『白鳥伝説』などによると『先代旧事本紀』「巻三 天神本紀」の「筑紫弦田物部等の祖天津赤星」が天津甕星であり、天津甕星とは物部氏の一族であったことも想定している。天津甕星を征伐しようとした建御雷や経津主が古代軍事を司っていたと言われている物部氏との関わりが深いので、朝廷に屈服し臣従した宮廷に仕える「内物部」(『古語拾遺』によると「饒速日命(にぎはやひのみこと)、内物部を(ひきい)て矛盾を造り備ふ(中略)物部乃ち矛盾を立て、大伴・来米 (つはもの)を建て、門を開きて、四方の国を朝らしめ、以て天位の貴きことを観しむ」とある。つまり物部氏の祖、饒速日命が内物部を率いて矛盾を造り、天皇の即位式の際には矛盾を持ち、天皇の威を示したと伝えられており、八世紀には物部氏の後裔である石上氏がその役割を果たしていた)と王朝にまつろわぬ「外物部」の対立の話であるという説は説得力がありそうです。この説をご存じであれば「鬼切部」の前身が「鬼部(もののべ)」であるという設定を活かす事も出来たと思うのですが。。。観月の民達の会話に登場する小子部栖軽、文石小麻呂や尾花の正体である一言主が登場する雄略天皇の時代は恐らく物部氏が台頭し始めた頃だと思われるので、(もっとも弥生時代には既に大勢力だったというものから物部氏自体存在しなかったというトンデモを含め、諸説あるので断言は出来ませんが)この時代に起きた「鬼部」の内紛という設定の話だったら良かったのかなぁと個人的には思っています。


画像:5世紀頃の甕 徳川家献上品出土地不明 撮影場所:東京国立博物館 考古展
【追記2】
出雲国風土記の伊農郷に「伊努」の地名由来譚として天甕津日姫がやってきて「伊農波也」と言ってから伊努と称するようになったという地名由来譚がある。(神亀三年に地名を伊農に改めた)。同風土記には天御梶日女命という似た名の神が登場するが同神であるとされている。また、「尾張国風土記」逸文には垂仁天皇の御代に日置部らの祖によって見顕された神に阿麻乃弥加津比女がある。天御梶日女命のミカヂは甕霊で水の神。甕の伏せた形の山を支配する神と見られている。天津甕星も本来はこれらの名前が似た女神と同じく甕霊の水神の一種、あるいは同じ存在であったのかも知れない。


参考文献
『日本書紀(上)』 宇治谷孟 講談社学術文庫
『先代旧事本紀 訓註』 大野七三 【校訂編集】 批評社
『日本古代氏族事典』 佐伯有張清編 雄山閣出版
『邪神記』 竹内健 現代思潮社
『新撰姓氏録考証』  栗田寛 吉川弘文館
『白鳥伝説』 谷川健一 集英社
『古語拾遺・高橋氏文』 安田尚道・秋本吉徳 校註 撰書 日本古典文庫 四 現代思潮社
『風土記』 吉野 裕・訳 東洋文庫145 平凡社

関連項目